2009年2月アーカイブ

そろばんの歴史

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■そろばんの伝来

 わが国に最初にそろばんが伝えられたのは16世紀の終わり慶長年間(戦国末期)であった。
 わが国そろばんの開祖毛利勘兵衛が、文禄年中、中国からそろばんとともに持ち帰った「算法統宗」は、その算法を書いたもので、これにより広く伝授が始められた。

 わが国のそろばんの生産地は、外来文化の流入地であった長崎とともに都に近い大津が最も古く、上方そろばんといわれた。

 その後、亀嵩そろばんの起源と関わりの深い「小八そろばん」の産地安芸(広島)などにも伝わって生産された。
 

■亀嵩そろばんの発祥

 亀嵩そろばんは郷土の先駆者村上吉五郎によって創始され、この地にそろばんの生産業が発祥した。優れた品質をもってあまねく全国に知られる特色ある地場産業となった。
 上伊豆屋所蔵の塩屋小八作そろばんの修理依頼を機会に製作を始めたと伝えられている。
 吉五郎がそろばんを作り始めたのは、文化10年(1813)とも、また文政のころ(1825前後)とも、天保初年ともいわれて確証は得難い。

 

 吉五郎が作った最も初期の作品に「岩祐」銘のものがあり(年代不詳、推定で文政年間)、「方常」の銘と年代がある1番古いものに天保3年(1832)がある。
 吉五郎は独特のロクロを考案しこれに一種の鉋をつけて珠を削ることを始めたと伝えられている。
 非凡な技術と職人気質で製作したそろばんは他の産地に見られない精巧なものであった。
 吉五郎銘を入れ資産のある家や商家に売り出した。
 このそろばんは「吉五郎そろばん」として評判を得、主に横田村樋口の仲買人により売捌かれた。 

 

 吉五郎が考案したロクロの構造は、今となっては推定は難しいが初期のロクロからやがては手回しのロクロに到達したものとみられる。

■亀嵩そろばんの売出し

 吉五郎の優れた技術は1子相伝の秘法で量産にならなかったが高値で売れた。
 この優れた品質を受けついでいるのが亀嵩そろばんである。
 亀嵩そろばんの名声を広く高めた陰に郡村出身の紅熊太郎による行商販売があった。
熊太郎は20歳過ぎの明治20年ごろから「雲州亀嵩」と書いたつづらを背負い、遠く群馬、埼玉方面に「亀嵩そろばん」といって売り歩いた。

■雲州そろばん

 吉五郎全盛のころ密かに吉五郎の技法を習得し製作を始めたのが、隣村の横田に住む常作、続いて朝吉であった。
 朝吉は慶応元年のころ製法を公開し、これに続いて吉五郎や常作も公開するようになった。
 やがてそろばん製造を軌道に乗せた朝吉は、量産した製品に「雲州そろばん」と名づけて差海商人によって広く売り出した。
 そろばんの需要急増期にのって(明治20年ごろ)数年の期間であったが、全国の役所に大量に販売し雲州そろばんの名が広く知られるようになった。

 

■地場産業として発展

 その後亀嵩そろばんは、後継職人によって製法や工具の改良が続けられた。手回しのロクロの改良や珠の穴ざらえ工法の改良などによって優れたそろばんを製造した。明治35年の仁多郡内年生産高は3500丁うち亀嵩720丁であった。
 亀嵩では高級品は職人が製作し、初級用(学校向け)は需要に応じ農家のよなべ仕事に作っていた。
 高級ものといわれた雲州のそろばんは、手回しのロクロを用いて珠を削っていた。連続して安定な回転する珠削り(雲州引きという)技法は優れたそろばんを生産していた。
 明治末年ころには、雲州から多数の職人が収入の安定を求めて大阪へ転出したので、関西方面でも雲州引きによる生産が盛んになった。
 大正年代に入ると、大阪・播州の技法を取り入れ工程を機械化を施すなどして、良質安価なそろばんを売り出したために、亀嵩や横田の製品は圧迫を受けるようになった。
 これに対処するため、大正6年、横田に雲州算盤製作所を設立(昭和3年廃業)、大正11年亀嵩に亀嵩算盤合名会社が創設され、亀嵩町上に工場を新築した。昭和初年梅木原工場がこれを引き継いだ。
 合名会社は職人の養成を行い、職人は自宅で珠けずり(珠屋)や組み立て(側屋)を行うなど分業組織も取り入れ地場産業として定着していった。
 昭和11年ごろ、貯金局から速算に最適のそろばん珠の寸法を示して大量の注文があった。会社ではその規格をもとに新しい規格を制定した。これが中八寸と呼ばれて一般化し今の規格となった。
 昭和30年ごろになると、播州の機械削りの珠の向上めざましく、手まわしのロクロによる普通珠をしのぐようになった。このころから亀嵩でも機械(ロクロ)の動力化と、生産性の合理化が行われるようになった。
 やがて機械仕上の珠が全面的に使用されるようになり、57年には珠屋は姿を消していった。
 会社では、昭和45年本工場を新築し、一連の自動化を行って、製品の量産と均一化を行い、50年代の初め生産は最盛期であった。
 55年ころから、卓上計算機の普及もあって、そろばんの需要の停滞と業界の競合、合理化によって業者の淘汰も進み、そろばん業のきびしい時代となってきた。
 <資料:奥出雲町横田そろばん会館より>
 

数量(丁)戸数(人)金額(円)備  考
明治 8600  数量、金額は郡の統計により
   35720工を業と360 一丁推計。一般には学校用などの
   36410する者34戸160 約50銭 安物が主流で雲州そろばん
   37 は不況。明治37,3年はどん底
大正 37,866算盤職工 34人2,918 
    93,350工業(本業)25戸   3,210 
   112,700工業(本業)57戸   4,650 
   146,000工業(本業)58戸  18,800 副業 67戸
昭和 26,000工業(本業)57戸  15,000 本業 男58 女11 計69     合計
    7     8,450 副業 男57 女27 計84    153人   
    924,900工業(本業)36戸  24,900 一丁 本業 男34 女2 計36  合計
    1円  副業 男30 女8 計38  74人
   15 工業(本業)63戸 150,800 
   43約15万業者 33戸  約1億 出荷先全国に及ぶ
  従業員 120人  
   4818万120人1.5億亀嵩算盤合名会社の生産高は
   5018万100人2.5億亀嵩の米の産額に匹敵する
   5318万45人 といわれた時代があった。現在、
   5415万38人 会社以外の生産高は少ない。



 

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