2014年12月アーカイブ

先日本校で行われた元気アップ・カーニバルの様子が、県教委のHPにアップされました。

 

http://www.pref.shimane.lg.jp/hokentaiku/gakutai/kaanibaru.data/14fusesho.pdf

 

 

 

4年生が、上三所地区にある「黒竹堤(くろだけづつみ)」の学習をしています。

以下に紹介している陶澤さんの記事にもあるように、この地区にとって、この黒竹堤は、大事な大事な宝です。皆が忘れてならない先人の労苦が、その歴史に残っています。子供たちにも、その想いがきっと伝わることと思います。

黒竹堤-恩田さん.JPG

上三所在住の恩田さんにご来校いただき、堤の概要や当時の様子などを教えていただきました。

地域の宝について、しっかり学習しています。

 

12月には、黒竹堤へ見学に出かけます。

 

当時の人々の苦労や時代背景など、感じ入ることの多い資料です。長いですが、ぜひ読んでみてください。 

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黒竹溜池築堤40周年を記念して


組合長 陶澤祐三郎

 本年は黒竹溜池築堤工事が昭和16年2月着工して以来40周年を迎えることになりました。皆様と共に栄光をたたえ、この機会に記念碑を建立、記念誌の発刊、物故者の追悼慰霊祭、水神祭り、祝賀式等々、意義深い行事を挙行し、その喜びを共にすることは慶賀に堪えず、且感慨無量なるものがあります。

 顧みますと、上三所地区は、地勢東西に長く谷間は階段式となり、中央下位を小川が流れ、標高370米地位にあり水量豊富ならず。毎年のごとく旱害を蒙り、労力の浪費多く、古来より補給水源として溜池の設置を要望されつつあり、偶々昭和14年、未曾有有の旱魃災害に遭遇し、収穫皆無の惨状を呈した。此の処、布勢村においては、旱害恒久対策事業として黒竹に溜池を築造する工事の事業主体となり、此の工事を用水組合をして施工せしめることと相成った。然し、この大溜池工事は、総事業費20,000円にて、補助金1/2、受益者負担10,000円となる設計なるため、当時、農業収入源である米価は一俵13円余にして、米換算する時770俵余りを持って負担することとなり、関係農家26戸はこれに堪え難く負担能力に限界ありとして躊躇した。然し、止むに止まれぬ毎年の水不足は先祖伝来の精神的苦悩であり、また14年旱害の再来を思う時、此の桟逸すべからずして、断固として将来への水不足解消を図るべく組合員一同署名調印し、強固なる決議により着工することとなった。

 昭和15年12月6日、関係地主集合、黒竹用水組合の創立総会となし、組合規約および役員を選任決定し、これにより2月16日敷地買収を終わり、2月28日現地に於いて地鎮祭を執行し、3月10日より工事着手、槌音高く黒竹谷の台地に鳴り響き、人心活気を呈す。工事は法止石垣、底樋布設、鋼土運搬、床掘りと作業は順調に進み、10月6日いよいよ鋼土入れの粘土搬出を終わり準備は整った。10月7日作業開始の時が来た。

 溜池の構築にあたり、鋼土入れは最重要な作業である。水漏れがあってはならぬ。先ず時は午前0時、居去神社に参拝祈願して黒竹現場に至り、井出口小瀧の清流にて身を清め、登立山上に立ち遥か東方に拝礼し、溜池の完成を祈願、下りて午前2時鋼底内の水を排出すべく焼玉発動機にてピーガルポンプの作動を開始した。

 ポンポンと鳴り響く音は静寂の夜空に広がりゆく。午前8時、水は完全に排出され底面が露出した頃、組合員が現場に集合。岩田村長以下助役、収入役、宇田川勧業主任、竹下技師、それに岩田組合長他役員列席の上、石原宮司により鋼底祓い清めの神事つづいて宮司より鎮めの品を捧げられ、これを底深くおさめて粘土を入れ、待ち構えたる労務者により鋼詰めが開始され、7日は夜を徹して作業が続き、翌8日も同様さらに9日もまた同様にして、遂に午後6時一応排水位迄搗き上げ、三日間昼夜兼行の作業を以て心魂こめて溜池の基礎は出来た。今、その思い出は感無量なるものがあります。

 而して昭和16年12月には大東亜戦争の勃発となり、第一線からは戦死の公報、昨日まで働いていた人に今日は赤紙召集令状。戦時体制は強化され、応召出発、職場動員愈々労力不足の度を増し、工事は遅々として進捗せず、苦難の日々が続く中、老若男女一体となり総力結集により各種の増産団体に労力奉仕の要請をなし、部落会、婦人会、警防団、青年学校、青年団、国民学校、乙種食糧増産隊、田種食糧増産隊、三瓶農民道場食糧増産隊等々の協力により、その出役する人数は地元出役者実人数167名、延べ6,785人役、各種団体の団体出役延べ2,408人役、合計9,193人役の人力により、遂に昭和19年9月28日、宿願は天に通じ、築堤工事は竣功したのであります。これ実に人力の汗の結晶にして、出役下さった方々に対して合掌し、心から御礼とお祝いを申しあげなければなりません。

 戦時体制強化の度は益々加わり、その中に空襲警報あり、竹槍訓練、警防隊、食糧増産、松根掘り等これら多大の日常労務のため工事は一時中止せざるを得なくなった。そして昭和20年8月敗戦となり、いよいよ暗雲低迷、気力喪失の中に昭和21年に至り、再び水路工事に着手し、翌22年6月にこれが完成。実に7ヵ年の長き歳月を経て、溜池に満水した水を抜銓し、涛々と縦樋をくだり、底樋を流れ、樋口は瀧の如く放出して新設水路に流れ、我が田に水が来た組合員は一斉に喊声高らかに唱えたのであります。

 かくして昭和23年4月、溜池工事費決算を行い、負担の精算がなされた。決算額は総収入22,081円67銭也。総支出54,235円86銭也。差引32,154円19銭の不足を生じ、これを賦課徴収して精算したのであります。

 当初計画にて10,000円の負担は、米に換算すると770俵であったが、7ヶ年後には32,154円19銭の負担に膨れた。而し、米換算によると、時の米公定価格1,700円にして130俵余りとなるも、この年からヤミ米1俵4,000円が横行し、これによるとき実質8俵の僅少な米にて決済されたのである。これ実に不幸中の幸いであったのだ。世の変遷に天地の差、幸運と不運つくづく考えさせられる。

 かくて溜池は毎年満々と水を湛え、向い辺の岸に打ち寄せる小波は将に湖水の如く、長さ42米、直高12米の堤頭に立ちて見下ろすとき、水面に遊泳する鯉の群れ。その様相の美観を一望に集め想起する時、着工時点より苦難の道は並大抵ではなかった。感涙にむせぶのみ。嗚呼この水こそ故人になられた方々の汗の結晶が水となっているのだ。完成を固く誓いあって立ち上がり、今茲にその実相が顕現されたのだ。その水が関係水田18町の補給用水として流れ込み米は稔るのだ。この溜池は我等の宝物、貴重な財産なのであります。

 茲に40周年を記念して水神祭、記念碑建立、故人追悼慰霊祭、記念式典の行事を挙行し、そして記念誌の発刊によって万代後世に永く伝えられんことを望んで止みません。

                  昭和55年9月13日

 

黒竹堤.JPG